梅雨にはしっとりしたイメージがあったのに、最近の梅雨は狂暴です。いつ豪雨による災害が起こるかもしれないとあっては、落ち着いて暮らせません。

高島嘉右衛門の占例集に、地山謙と天変地異の話があります。

本来、地山謙は高い山が低い地にへりくだる卦で、高尚な君子が自らを誇らず謙遜しています。どの卦も爻によって吉凶が入り混じりますが、地山謙だけは初爻から上爻まですべて吉です。

地山謙がでれば、欲張らず威張らず、こつこつ取り組めば吉。高島嘉右衛門の占例も、地元の殖産を推進する県の職員や学問の道に進む書生などが出ています。

 

ところが、付記として高島嘉右衛門ではなく、盛岡藩士早川和右衛門による占例が紹介し、読んでいると背中がぞくぞくしてきました。

早川和右衛門は若い頃に文武修業のために諸国を遍歴。旅費は占いで稼いでいました。

ある年の夏、秋田県の象潟(きさかた)に逗留。失せ物、家出人、待ち人などを占うと告知し、旅館の二階で髪を結わせていました。

すると部屋に船虫が集まってきます。「この土地にはいつも船虫が来るのか」と髪結いに聞くと、こんなことはないとの答え。そのうち壁も天井も船虫でいっぱいになり、不思議に思って易を立てたところ地山謙の五爻を得ました。

山が地に下るという象意で不安になり、夕方に出発することに。旅館の人は明朝の出発を勧めましたが、握り飯と提灯を支度してもらい宿を出発。そして夜間、山道を歩いていたら突然、山や谷が振動しました。

やがて夜明けになって飛脚らしい者が通るので聞いてみると、昨夜の大地震のために象潟港は陥没して海となり山や谷は転倒してもとの姿ではなくなったと言う。氏はこれを聞いて髪の毛が逆立つ思いで、ただ易の未来を予知することが厳然たることに恐れをなし、今に至るまで当時を思い起こして常に感銘を深くするのであると。

時は文化元年6月4日(1804年7月10日)、象潟地震です。被害は5500軒あまりの家がつぶれ、死者は366人と記録にあります。

 

こういう占例に接すると、爻辞にとらわれていると当たらないと思います。易者は、起こりつつある事象と得た易の関連性をあらゆる角度から、全神経を使って探っていきます。地震というと文字通り雷(震)の卦や、大震の卦である地沢臨を連想しますが、部屋をおおいつくした船虫のぞわぞわした感じから、地山謙が地震へと結びつき、その夜に発つという決断に結びついたのでしょう。

 

そして、天変地異を占うことのむずかしさも改めて考えさせられます。早川和右衛門は易で天変があるとは予言できないとし、宿の人に理由は告げずに立ち去りました。

週刊誌の記者をしていて、2008年6月の宮城・岩手内陸地震を当てた占い師を発掘し紙面で大々的に紹介したことがあるのですが、果たしてあれは正しかったことだったのか。

早川和右衛門は自らの生死がかかった占いですから易神は危険を告げ、彼は受けとめました。できるだけ多くの人に告げて山への避難を勧めるべきだったのかもしれませんが、それはやはり占い師の役割ではないと思います。国政を預かる人のお抱え占い師ならいざしらず、誰からも頼まれていないのに天変地異や政変を占うのは個人の趣味にして仲間内の勉強ネタにしておいたほうが無難です。

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