夏瀬杏子さん主催の易の会では、同じ占的に対して各自が易を立てます。占的に合わせて出た卦の意味をくみ取り、自分の言葉で伝える練習です。

易神のメッセージは一つのはずなのに、なぜ卦がばらばらなのか。

それは回路が異なるから。

易の練習に「射覆(せきふ)」というものがあります。布で覆ったり箱に入れた物が何なのかそれぞれが易を立てて当てるのです。自分にはこういう回路を通じて易神からのメッセージがもたらされるという傾向を知っているほど有利になりますし、好き嫌いや得手不得手、これまで蓄積してきた経験から出る卦は異なってくるでしょう。

当てるのは物だけでなく、出題者が週末に何をする予定か、今晩は何を食べるかといったことも射覆の対象となります。

たとえば週末の予定の「キャンプ」を当てる場合。

沢山咸(たくざんかん)を出した人は、若い男女が集まって合コン的なイメージを持ったのでしょう。沢(若い女性)と山は(若い男性)が感応し恋が生まれるようなキャンプです。

厳しい雪山をキャンプをしながら登頂を目指すなら水山蹇(すいざんけん)。装備を怠り判断を誤るとたちまち遭難の恐れがあるという戒めの卦です。

ソロキャンプでひたすら焚火を見るというヒロシみたいな人なら山火賁(さんかひ)。そしてキャンプなんて面倒、山に行くなら温泉のほうがいいと思う人なら火山旅(かざんりょ)。山火賁は山を飾る火の美しさに焦点を当てているのに対し、火山旅は爻辞に「宿」という言葉が出てきます。

それでは山水蒙(さんすいもう)を出すのはどんな人?

「蒙」は啓蒙の「蒙」で教育の卦です。小学校や先生で林間学校の引率をしたり、ボーイスカウトの関係者かもしれません。あるいは、子供をキャンプに連れて行って自然の楽しさを教えたいと思っているお父さん、お母さん。

 

ネットフリックスとNHKでカナダのドラマ『アンという名の少女』が放映され、なつかしくなってアンシリーズを読み返しました。

第4巻の『アンの友達』にはアンは登場せず、周囲の人々の人生ドラマが描かれています。

その中の『めいめい自分の言葉で』という短編。

厳格なレオナード牧師の娘マーガレットは、父親の反対を押し切ってバイオリニストと結婚します。マーガレットが亡くなり孫息子のフェリクスを引き取ったレオナード牧師は、バイオリンを弾くのを禁止し自分と同じく牧師にしようとします。

フェリクスは天性の演奏家であり、祖父のバイオリン禁止令に従うのはむずかしいことでしたが、なんとか約束を守ります。

そんなある日、恥ずべき暮らしをしている自堕落な女ナオミが死にかかっていて、レオナード牧師が呼ばれます。キリスト教徒は死の床で聖職者に祈ってもらわないと天国に行けなません。イギリスの小説『大聖堂』でも、残虐の限りを尽くした大悪人ですら臨終の際に聖職者が立ち会ってくれないことを心配してました。

レオナード牧師は地獄を恐れるナオミに対して「神はわたしたちを父のように愛してくださる」と説くのですが、ナオミは受け入れられません。祖父を迎えに来たフェリクスにナオミは壁にかかっているバイオリンを弾いてくれるように懇願します。地獄へ落ちる恐怖をまぎらわすために。

フェリクスの音楽によってナオミは安らかに旅立ちます。「神様はどんな者でも許してくださる。牧師さんはそう話してくれたけれど私は信じられなかった。だけど、それを私にわかる話し方で伝えるために神様が坊やをよこしてくださった」と言い残して。

聖職者の言葉や儀式ではなく、音楽の力で神の存在を認識できる人もいるのです。レオナード牧師は悔い改め、フェリクスを音楽の道に進ませることにしました。

 

誰もが同じ言葉で易神からのメッセージが伝わるのなら、易経の卦辞や爻辞を読めばそれで済みます。現実にはそうでないから、自分という回路を通して言葉を組み直す必要があるのです。客と占い師との相性が大切だと言われるのは、占い師の回路が自分と合っていないとメッセージとして受け取れないからです。

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