先日、車椅子の女性が映画館に行き介助をお願いしたら「次からは車椅子用の席があるスクリーンへ」と言われたことをSNSに投稿し、炎上しました。

車椅子の女性を擁護する人もいて、出たのが担担麺のたとえ。

飲食店の店員さんが不注意で担担麺をひっくり返した。手元のおしぼりで膝を拭いていたら、店員さんがタオルを差し出したが、軽く返事をしただけでお礼を言わなかった。既にマイナスのことをされているから、店側がタオルを持ってくるのは善意ではなく当たり前のことだから。この社会は健常者向きにできていて、障碍者は常にマイナスのことをされている状態。担担麺をぶちまけられてタオルを差し出されてお礼が言える人だけが障害者にお礼を要求すればいい」という理屈です。

たしかに車椅子の生活は不便なことだらけでしょう。大変な不運に見舞われているのだから、社会から配慮されるのは当たり前だと考えるのも無理はないと思います。

しかし、健常者だからといってすべてが思いのままというわけではありません。才能や美貌に恵まれず不本意な人生を送っていたり、生まれた家の貧困や歪んだ関係でトラウマを抱えている人もいます。そんな人たちが程度の差はあれ「思うように生きられなかったから、埋め合わせされるのは当然」と考えたら社会は成り立ちません。

 

『グレート・ギャツビー』の冒頭に出て来る父からのアドバイス。

“Whenever you feel like criticizing anyone,” he told me, “Just remember that all the people in this world haven’t had the advantages that you’ve had.”

「誰かのことを批判したくなったときには、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。

「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」(村上春樹訳)

グレート・ギャツビーの語り手のニックは上流階級出身なのに対して、ギャツビーは成り上がり。最後までギャツビーの面倒を見たのは父からの助言に従ったからでしょう。しかし、アメリカに貴族はいませんし、ニックにしてもマンハッタンに通勤する会社員に過ぎません。上には上がいるけれど、恵まれた条件を与えられていると諭した父親は素晴らしい教育方針の持主です。身分や資産に関わらず、こういうふうに考えられることが品格なのではと思いました。

不満はいろいろあるけれど、困っている人がいたらできる範囲で手を貸したい。車椅子の人を抱きかかえるのは無理ですが、エレベーターを譲ることならできます。そして助けてもらったら「私は年寄りだから当然だ」ではなく、そのつど感謝の気持ちを伝えようと思います。

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事