先日翡翠先生が書いたデイリーメッセージ。

かえるを刺したら自分も溺れてしまうのに、それでも刺してしまうさそり。
わかっているけどやめられない。

 

翡翠先生と二人で行った断食施設では空腹をまぎらわせるためもあり、さんざんおしゃべりしました。
翡翠先生も書いていますが食べ物の話(なぜか意識はどうしてもそこへ)から子供のころの話まで。

その中で思ったのは
「『どうしても手に入れたかったもの』をずっと求め続けている人は、結構いるのかもしれない」
ということです。

 

 

私は育った環境や経験の中で「どうしても自分の家族が欲しい!!」という気持ちが若い頃強く芽生えて、まるでリベンジを果たすが如くの執念でここまで来た気がします。
とりあえず願いはそこそこ叶った。
若くて柔らかい時期に覚えた「欠乏感」「飢餓感」というのは、ものすごく強いのです。
(特に親が絡んだものは強烈でしょう)

 

 

当然私と今までの暮らしは全然違いますが、翡翠先生もやはりあることが欠けていると思って、それを得ようと長い間必死だったという話になりました。
でも私からすると「そこは別に欠けてないのでは?」と失礼ながら思ってしまうのですが、そこが翡翠先生の「さそり」なのでしょう。

 

私自身のことも何十年も経つと「別にそこに気持ちを持っていく必要なかったのでは?」と思うこともあるのですが、やっぱりそこは私の「さそり」なのです。
意識には登らなくても心の底にさそりは隠れていて、何かの折には自分自身を刺さずにはいられない。

 

 

同じように何かの欠けを取り戻すが如く生きている人は(そしてそれに気づいていない人も)きっと多いでしょう。
翡翠先生の記事には
「一種の開き直りですが、心の中のさそりを見ないふりをしていても、結局は何かを刺すのです。」
とあります。
一生を共にしないといけないさそりなら、せめてどんなさそりなのか気づいておくと楽かもしれませんね。

 

 

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