二児の母でもある早紀さん

 

業業カフェでは、ウラナイ8の偏愛部部長(?)深瀬まるが、「好き」をライフワーク&ライスワークにしている人に、様々な角度からインタビューしていきます(不定期連載)。第三回のゲストはアーユルヴェーダLOVE池田早紀さんさんです。

【 偏愛と星の考察 】偏愛を生業にするまでの(意外な)凸凹道 池田早紀さん

今回はアーユルヴェーダ・カウンセラーとして活躍中の池田早紀さんです。以前、コラボセッション会でご一緒した方です。偏愛を生業にするまでの(意外な)凸凹道をお聞きしました。過去の黒歴史の数々もうっかり赤裸々に話してくださったので、全部披露しようと思います。またしても長くなったので、お時間あるときにどうぞ。

 

早紀さんの星メモ(一部ご紹介)
・西洋占星術=9ハウス:蠍座に月、火星、木星。乙女座に太陽と水星。獅子座金星。MCに射手座天王星が合
・インド占星術=山羊座ラグナ

 

ーー  さっそくですが、アーユルヴェーダのどこに魅了されましたか?

早紀さん(以下、早紀) はい。ではさっそく答えます(笑)。アーユルヴェーダは、本来生まれ持った素質=プラクリティで生きることが大切、というスタンスです。本来の素質を捻じ曲げず、そのまま活かすという意味での「治す」が、自分にはフィットしました。

加工しない、表面だけを取り繕わない、そのものであることが尊いと思っています。
持ってるものを損なわず、いかに良さを引き出すか。例えばお料理でも本当に素材が美味しければ、あれこれ複雑に加工しなくとも、最高に美味しくいただけるように。

ーー  へぇ〜、そこは私のインド占星術スタンスと似てるなぁ。私も素材の肯定をモットーにしています。これってインド的スタンス?

早紀 ふふ(笑)。そのためアーユルヴェーダは、人格否定に繋がらない姿勢を持ちます。人間も自然の一部ですから、人間が自然とともにゆらぐのは当たり前。自然の変化に合わせて、いかにチューニングしていくかが大切です。そして、もしも不要なものがあれば、カラダから排出(浄化)して、ニュートラルにしていく…。

そもそも、壊れた箇所を直す対処療法には興味がありませんでした。対処療法的な西洋の価値よりも、昔から素材そのものを活かす東洋の価値が好きだったので、そういうものに関わりたかったんです。

 

早紀さん宅へお邪魔して、アーユルヴェーダに基づいたインド料理ランチをご馳走になりました。美味しかった! がしかし、この日は別の話で盛り上がってしまい、後日改めてインタビューすることに…

 

ーー アーユルヴェーダを生業とする人の子ども時代って、どんなだったんでしょう

早紀 6歳まで香港で育ち、小1から東京へ、小3以降は千葉で暮らしました。
小中時代は100点オール5は当たり前で生きてました。学級委員はやるもの。展覧会は当然入選するもの。どれも「やりたい!」というやんちゃな動機ではなく、「やらなきゃ」という義務感や責任感に捕らわれていました。いやらしいと思われるかもしれませんが、どういうふうにすれば大人から表彰されるかが分かる子供だったので、常にそれを意識して動いてました。設定された枠に沿って、最善を尽くすことをモットーにしていたというか。

ーー ドラマの子役やってたら、大成したかもしれませんね

早紀 これまで(内面を暴露するのはみっともなくて)誰にも言わなかったことですが、努力してることをひけらかすことは一切しませんでした。努力するのは当たり前だけど、そんなことは誰にも言いたくない。闘争心ギラギラの人をダサいとすら思ってました。

ーー いたいた!そういう人。なんにもやってないって言って毎回トップの人

早紀 はい(笑)。しかし、常に学年トップだった私が、中2の時に一度学年7位くらいに落ちました。それを同級生から指摘されたことがあったんですが、他人から指摘されたことが、その時はもう死ぬほど恥ずかしかった。自分で設定した立ち位置を絶対に死守したかったのに、あの時は死んだほうがマシくらいに落ち込みました。

ーー 1位から転落する恐怖ってスゴイのね。優等生も大変だ…

早紀 当時は自分が完璧でないと許せなかったんですね。優等生は条件反射でやってました。でも常に緊張してた気がします。さっきも言ったことですが、自分には評価されることを前提として、完璧を目指して動くところがありましたからね。

ーー じゃ、その後もずっとそんな感じだったんですか?

早紀 それが高校に入って一転しました。なぜかふと写真部に入ってしまいまして。写真は大学まで続けました。でも、これが、、、めっちゃよくて…!!! それまでの鎧を着込んだ自分がパーッと解き放たれる気分でした。もう来る日も来る日も、昼休みや放課後になると暗室にずーっと籠もってました。何も見えない真っ暗な世界で、一人黙々と現像する日々に満たされてました。

ーー ほほう、これまた一変しましたね。真っ暗闇で引き篭もりライフですか

早紀 写真には正解があるわけではなく、自分が見えたものをただ好きに切り取ればいい。その作業にハマりました。自分のテリトリーが守れるアングラな世界。誰の評価も気にしなくていい。自分の姿も見えない暗室では、自分でも手探りで動くしか無い完全な暗さ。自分の目も利かないくらいの暗さ。その中にいると、それまでの緊張がゆるゆる溶けていきました。

暗室にいると、クラスメイトたちと一緒にゴハン食べなくてもいい(優等生的な役目を放棄できる)から、すっごい楽ちんでした。写真部の部員たちも、マイペースな個人主義ばかりでした。写真部は人嫌いが集まってた気がします。群れたくない人が集まっていたから、どの人も一人で校内に居場所を見つけて、ポツンとしてましたね。だから、どこかで見かけても、お互いに声をかけなかった。この頃から個人行動の快適さを覚えていきました。

ーー 暗室って本気で真っ暗ですよね。高校ではそこに籠もって変容したわけですね。じゃ大学時代もそんな感じで?

早紀 大学に入っても写真は続けましたが、さすがにそれだけではなく(笑)。大学では心理学を専攻しましたが、これじゃない感でいっぱいでした。その頃の自分は「心理学をやってても健康にはなれないのではないか?」という疑念が拭えなかったんです。たとえ心理分析で正しくアプローチしたところで、その人が家でポテチ食べながら夜更かししてゲームして、朝日が登る頃に寝てたら意味ない気がしたんです。体についても、いくら五体満足でも、元気じゃない人が大勢いる。症状に出ていなくても、見えない病があるのでは?とずっと思ってました。大学時代は社会での自分の役目はなんだろう?って漠然と探してました。

そんな思いと並行して、20歳になったらインドに行こうと昔から決めてたんです。

ーー ついに登場しましたね、インド

早紀 実は私が小さい頃、母がインドへ一人旅して人生が変わるほどの体験したと聞いてたんです。それを聞いてたので、いつかインドへ行ってみたい憧れがありました。その後、母は60歳でオステオパスの治療院を四国で開業しました。昔ながらの専業主婦や夫の補佐役のような生き方はイヤという考えの持ち主で、妻であろうとも独立した立場でいたい人でした。そんな母のスタンスは受け継いでると思います。



ーー (お母さん、お強い・・・)

早紀 で、20歳で決意どおりインドに行きました。インド哲学を専攻してたクラスメイトと二人で行ったんですが、大学の夏休みを利用して二週間ほどバックパッカーを。北のデリーからスタートし、南下していきました。その旅の途中で知り合ったインド人にここへいくといいよ〜と勧められた場所がありまして、南インドのトリヴァンドラムというところだったんですが。時間もあったので、とりあえず向かってみることにしました。そしたら、そこにはアーユルヴェーダの世界最古の治療院(リトリート施設)があって、そこで見た光景にびっくりしてしまって…。

そこは緑豊かな芝生の先に広大なインド洋が広がっていて、とてものびのびとして開放的で、まるで楽園のような光景でした。患者はそこに滞在して、みんな寛ぎながら治療を受けていたんですね。一方、当時の日本では、心理的に不具合を起こすと、勝手に行動しないよう隔離施設に閉じ込めたり、薬で無理やり鎮静させたりして、人間扱いとは程遠い治療が主流だったので、そのギャップに驚きました。

そういう日本の実情に疑問を抱いていたので、トリヴァンドラムの治療院の光景を見た時、強い感銘を受けました。これだーって。私には理想的に思えたし、もっと深く知りたいと思いました。

ーー アーユルヴェーダとの出会いは、そこだったんですね

早紀 はい。それで帰国後すぐに、日本でやってるアーユルヴェーダの学校を調べまくりました(笑)。するとインドのクジャラート大学のカリキュラムを教えるスクールが見つかったので、即入学してしまいました。4年間750時間、ずっとそこで学びました。大学在学中だったので、ダブルスクールでした。ただアーユルヴェーダの大学カリキュラムと言っても、当時の日本ではまだ先駆けだったので、こじんまりした学校でした。ハタイクリニックの二階でひっそりと。周りからは怪しく見えたかもしれませんね…(笑)。

あと、「治す」がずっと私のテーマとしてあるんですが、そこに「海外」を加えたかったんです。そして、その2つが繋がる生き方を、ずっと探していました。

そういう意味でも、アーユルヴェーダには根本治療という視点があり、またアーユルヴェーダには海外に行けるチャンスがありました。そして、国内だけで通用する権威や資格に縛られたくないという思いも私にはありました。法的に世界のどこででも通用する資格が欲しかったんです。その点、アーユルヴェーダの資格は、国際ライセンス(国際的な証明書)を得られる通行手形でした。ようやく「治す」と「海外」が繋がりました。

ーー なるほど。そこから順調にアーユルヴェーダ人生を歩んでいったんですか?

早紀 ええとですね。ええと。実はその後、フィンランドに移住して1年ほど医療機関で働きまして、帰国後は西荻窪で一人暮らしして、、、で、しばらく廃人生活でした。

ーー ええええええ?(意外!)

早紀 フィンランド帰国後は特にやることもなかったので、四国でお遍路に行ってしまいました(自分探し的な放浪)。ですが、四十八ヵ所到達する途中で、ドキュメンタリー映画を作っている監督に出会い、急遽そこで働くことになりまして。なぜかAD生活を半年くらいしました。しかし、入ってみたらイメージと違い、なかなかのワンマン経営で、毎日ブラック労働してました。

ーー 暗室の次は、ブラック労働とは。またしても真っ暗闇の世界!

早紀 ボロいツナギの腰にガムテつけて、楽屋へ挨拶にいったりロケ弁の手配したり、都内のテレビスタジオであくせくADとして駆けずり回りました。コンビニ弁当食べながら徹夜で編集する生活をひたすら続ける日々でかなりドロドロでした。アーユルヴェーダを学んだのに、いったい私はここで何をやっているんだろう?と呆然としながらも、淡々と日々は過ぎていきました。


ーー 子供の頃から枠に合わせる能力はずば抜けてるのに、迷走する時もあるんですね〜

早紀 あの頃は、なぜか自分がわからなくなってしまいました。

 

井の頭公園の目の前にあるコーヒーショップで再会

 

ーー いや、人間味があってすごくイイです。さきさん、サイボーグじゃなかった。笑

早紀 笑。それがある日、知り合いの中医学ドクターに声かけてもらい、一緒に中国とマレーシアに行くことになったんです。これぞ渡りに船というか。節目というか。それでようやく半年間の道草AD生活にピリオドを打てました。

で、マレーシアのペナン島へ行き、そこで西荻窪で代替医療サロンをやってるオーナーと出会いました。同行の中医学ドクターがオーナーとの間を取り持ってくれて、トントン拍子で西荻窪サロンのコーナーでアーユルヴェーダ・カウンセリングをやらせてもらうことになったんです。そこからアーユルヴェーダ活動が本格的にスタートしました。

ーー いよいよ始まったのですね、アーユルヴェーダ活動が本格的に。意外と回り道でした

早紀 私はいつも「旅」に種(タネ)があり、旅先でそれを拾って土に植えて0を1にし、それを育てて(1から1.1へ、さらに1.2へと…)自分のものにしていくプロセスがあるようです。

自分には完全体へのイメージがあって、自分はそこに到達できてないという距離感が常にあります。完全性を補う、これが根底にあります。「今幸せだなぁ」と感じる充足感。原型は完全なる◯だから、それを取り戻すのが目標です(その間も前進しながら)。

アーユルヴェーダは、欠けた部分を取り戻す医療ですが、完璧な人(ラウンドの人)の場合は、さらに健康になるための医療を目指します。それは、その人が元気になったら、その人のエネルギーを社会に還元して、循環していくということです。その人自身が大きなラウンドを作っていけばいいなと思っています。

現在は、アーユルヴェーダ・カウンセリングの傍ら、アジア諸国の自然豊かな地で、アーユルヴェーダ・リトリート施設を開発するべく、プロジェクトメンバーとして活動しています。人間が自然の一部となり、リラックスしながら治癒できる場作りを目指しています。10年スパンで描く理想の実現活動が今始まったばかりです。

ーー それは楽しみです!(私が婆さんになったら行きたい!)

早紀 は〜い。ではまた〜!(と言って、ママチャリに乗って、次のミッションへ颯爽と向かいました)

 

編集後記
このシリーズ、どうもだんだん長くなってしまう傾向です。掘るとねぇ、いろいろ出て来るんですよ。なので、またしてもたっぷりインタビューしてしまいました。しかしこれまでと違い、今回は偏愛を生業にしている人でした。特徴としては、提供された枠を完璧に埋めたい本来の性質と、ローカルの枠にハマらない社会的スタンスが浮き彫りになるインタビューだったかなーと。人間性とか生き方って、一筋縄じゃいかないよなぁとしみじみ思います。放浪中に出会う人がきっかけで、人生がガラリと動く様子もおもしろかったです。さすが柔軟宮ですね。今後のご活躍も目が離せない早紀さんです。この度はありがとうございました。

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